いわゆるメスカリン系ドラッグ。ダメ。ゼッタイ。
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イントロダクション
第1回 貝塚市立自然遊学館
第2回 エドモント・テーラー記念博物館
第3回 ミイラ猫の博物館
第4回 カルバーシティ歴史博物館
第5回 百年後の博物館
第6回 餃子ミュージアム

オブジェ
第2回 エドモント・テーラー記念博物館
2−1 僕はたてつけの悪い引き戸をがたりと開けた。

僕はたてつけの悪い引き戸をがたりと開けた。そこに博物館らしさは一切ない。古風な一軒家。まるで他人の家に不法侵入している気分だ。玄関の三和土には靴は一足もなく、上がりかまちがあって、ひんやりとした廊下が遠くまで伸びている。ジャパニーズホラーの始まりのようだ。

すいませーんと奥に向かって呼びかけてみるが、声は思ったよりも出ていない。靴箱の上には、簡単な博物館の案内が英語と日本語で書かれていた。ようこそエドモント・テーラー記念博物館へ、この博物館は1971年にうんたらかんたら。入館無料。廊下の先をもう一度見るが、人の気配はしない。無人博物館なのか。うんこ猫も見当たらない。ふーと息を吐き、靴を脱いで、あがる。小声で、お邪魔します。

エドモント・テーラー記念博物館は、故エドモント・テーラー医師(1915〜1970)が、個人的に収集した数々の珍品奇品が展示してある博物館である。少しだけエドモントさんの略歴を紹介する。以下は博物館のしおりから一部抜粋させてもらった。

—エドモント・テーラー医師が生まれたのは、1915年のアメリカ・ロスアンゼルス郊外である。ピルグリム・ファーザーズの末裔として、テーラー家は代々、その土地で薬屋を営んでいる。古くはインディアンとも交流があり、向精神薬のペヨーテをアメリカで最初に紹介したのはテーラー一族だと言われている。エドモントには兄妹はおらず、裕福な血筋の寵愛を一身に受けて育った。父親ビル・テーラーと母親メアリー・テーラーは、息子のために様々なものを買い与えてやった。その中で、エドモントが特に興味を示したのが、図鑑と時計だ。特に時計はその内部構造に関心を示し、しばしば分解し、バラバラになったネジやゼンマイを大事に保管していた。その他、道で拾った用途不明の部品を集めるのが好きだった。彼の奇妙な蒐集癖はこの頃から始まったようだ。
18歳のときに、ロマリンダ大学医学部に入学。砂漠の巨塔で、彼は孤独に医学への道を邁進する。そして人間のからだに隠されたロマンに魅了されていく。「人間の肉体もまたひとつの工業製品のようだ。精巧に作られた部品と部品が連結しあうことによって、ひとつの構造を形成している」と語っている。
(中略。それからいろいろあって。)
1941年、26歳のときに、北アフリカ戦線に軍医として徴兵される。
1945年、30歳のときに、故郷に帰国。父母は離婚していた。地元で開業医を始める。1946年、幼なじみの舞台女優ステーラ・サンダースと結婚。翌年、離婚。
(この頃から、ヨーロッパやアジアを旅行しまくる。当地で見つけた「使途不明」な品々を持ち帰り、蒐集し始める。)
1948年、33歳のときに初来日。日本文化に傾倒する。貝塚市出身の芸者・相沢房子(当時18歳)と京都で出会う。
1949年、34歳のときに再来日、貝塚市で房子と結婚。房子の父親から資金を調達し地元で診療所を開業する(現エドモント・テーラー記念博物館)。翌年には双子の男女をもうけるが、長男はわずか3ヶ月で病死。
(中略。さらにいろいろあって)
1966年、次女めぐみ、生誕。エドモンド51歳のときの子供である。
1967年、妻・房子、他界(享年37歳)。
1970年、エドモント、後を追うように、結核を患い病死(享年55歳)。
エドモント・テーラーは、貝塚市民からは親しみを込めて、江戸さんと呼ばれてたらしいが、本人はあまり気に入ってなかったようである。


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