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オブジェ
5−2 タイヤが翼に格納される音が彼女の足下でした。

タイヤが翼に格納される音が彼女の足下でした。タカハシマサコは、全日空005便、ロサンゼルス発成田往きの機中にいた。西海岸の午前11時の強い陽光に機体は照らされ、窓側に座る乗客たちは早々にひさしを下ろしていたが、彼女だけは窓の外を眩しげに眺めていた。彼女は移動の際、必ず窓側の席を予約した。上空から眺める地上の世界は何よりも美しい。ミニチュアでできたサンディエゴの海岸が見える。多くのサーファーを激しくもてあそぶ巨大な波も、ただの白いギザギザの線として油絵の具で描かれた写実主義のように固まっている。そこには人間の存在がみじんも感じられない。荒々しい自然だけがくっきりと描かれている。世界の主人公は、どうやら人間ではない。彼女にとってその認識はほんの少し心安まることだった。
しばらくすると雲の中に入り、シートベルトの着脱を知らせるチャイムが鳴る。高度29,000フィートのアナウンスが流れた。ここまでくると外の風景も見るものはない。彼女は目をつぶる。空港には、キャップの男が見送りにきていた。彼女の愛人だ。夫は一足先にグランドキャニオン行きの国内線で同じ空港の別のターミナルから飛び去っていった。愛人はそのあとにやってきた。キャップの男と会ったのは、三日前のコーヒーショップ以来だ。あの晩、彼との電話で彼女は泣いた。別れ話を持ち出されただけで泣いてしまった自分が信じられなかった。まるで10代の女の子じゃないか。そして空港でも同じことが行われた。
「この間の話だけど」とキャップの男は切り出した。
午前10時の空港のラウンジは愛人との修羅場を演じるには似つかわしくない。彼女は黙って男の話を聞いた。10歳も年下のその日本人青年は、俳優を目指してハリウッドにやってきて、今は中華街でウェイターをしている。出会ったのは半年前。日本人会のパーティのときに、そもそも彼女はそんなグループもパーティも好きではなかったが夫の付き合いで仕方なく出向いた、窓際で欠伸をしていた者同士ふたりは意気投合した。そして1週間後には愛人関係になっていた。もちろん、彼女にはヨウタという手間のかかる息子がいたし、アバンチュールを楽しむほどに財産があったわけでもない。週に一度のヨウタの検診でダウンタウンの病院にやってきたときにお茶をする程度だった。ベッドを共にしたのは半年で3回しかない。彼女は男の夫とは対照的な不器用さが好きだった。男の方も彼女の世慣れた雰囲気が好きだった。しかしそれよりも、ふたりは単純に寂しかった。漠然とした異国での寂しさは、それを体験したものでしかわからない。
「やっぱりもう会わない方がいいと思うんだ」と男は言った。
いったいこの男は、なんの権利があってわざわざ空港までそんな話をしにきたんだ。今から私は、夫の代わりに義理の叔父の葬式に出るために日本に戻らなくてはいけないのだ。息子は行方不明で、警察からは事件に巻き込まれてるという情報まで入ってきて、私は混乱している。そんなときに、会うのをやめる? 怒りと戸惑いの感情が激しく心を揺する。
「そんな話、今しなくてもいいじゃない」と冷静を装って彼女は答えた。
男は眉間に寄った彼女の皺を見落とさなかった。彼女はもともと童顔だったせいもあるが、往々にして年齢よりも10歳は若く見られる。しかし隠せない衰えのようなものは顔に現れる。それはサビのようなものだ。空気に触れていればそれだけで人の顔も酸化する。
「もうここ(ロス)を離れるから。マサコさんが日本から帰ってきたらここにはいないから」と男は言った。
「どこに行くの?」と女は驚いて答えた。
「カナダの友人が映画の撮影に参加しないかって言ってきたんだ。全然プロダクションの仕事じゃないんだけど、それでも何かのチャンスになるかもしれないし」
「いやって言ったら?」
男は黙った。彼女は自分が情けなくて仕方なかった。結局のところ、そういう関係ではないのだ。好きだの嫌いだの、別れたいだの別れたくないだの、未来だの夢だのを語り合うような、そういうものとは全然違う種類の関係なのだ。寂しさを一時忘れるためだけのコンピューターゲームのようなものだ。それをいつまでも続けようというのが土台無理な話なのだ。それにも関わらず、マサコの方は、終了ボタンを押すのをためらった。それは未練があるのとは違う。
「ごめんなさい。別れ方がわからないだけなの。昔から。どんな人でも、別れるときはどうしても耐えられないの。それだけなの、ごめんなさい。それじゃあまた」と言って彼女は立ち上がった。 「また、は、ないんだ」と男は声をかけた。それからふたりは黙ったままラウンジを出た。マサコは出国手続きのカウンターへ、キャップの男は空港出口へと向かった。


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