

サナエはパソコンを開き、インターネットの画面を見せた。
「メールで知らせても良かったんだけど、なんとなく直接会える時の方がいいかなって」
そのページには「百年後の博物館」という文字が大きく載っていた。
「これ私の知り合いが教えてくれたの。演劇関係のボランティアしてるって言ったでしょ。そのラインの人なんだけど、クロダさんていう演劇のフライヤーとかを作ってるデザイナーさんがいて、その人が展覧会を開くらしいのね。私の知人もその人に昔フライヤーを作ってもらったことがあるらしくて、それで知ったんだけど」
「よくわからないんだけど」
「このページに小説があるの。よくわからない小説なんだけど、ただ、その中にヨウタくんにそっくりな子が出てくるの」
「どういうこと」
「あらすじを簡単に言えば、ある少年が町の中で偶然見つけた猿を追ってどんどん奇妙な世界に入ってちゃうの。不思議の国のアリスみたいな。それで、彼、記憶をどんどん失って、いろんな場所をひとりで旅するんだけど、最終的に新宿の南口に出るの。それってヨウタくんが見つかった場所でしょ」
マサコはなんて返事をしていいのかわからなかった。今までにも何度も似たようなことはあった。警察に寄せられた情報は300件を超えていたし、実際に5組の親が「私の子供ではないでしょうか」とやってきた。しかし一つとして手がかりになるようなものはなかった。悪意のあるいたずらやニュースを見た詐欺師に、はめられそうになったことも何度もある。ヨウタの件で、マサコは何度も絶望している。それにこれは小説だ。ただ偶然似たような話を書いた人がいたってそれが何だというのだ。
「ありがとう。でも、さっきも言ったけど、もういいの。ヨウタが記憶を失う前にどこに住んでいたのか。なんて名前なのか。なぜ記憶を失ったのか。そういうの、考えないようにしているの」
「蓋を閉めたって、そこにあるものは、そこにあるのよ」とサナエは言った。
「もしも無理矢理開けて、壊れてたらどうする? 私、開けなければ良かったって思うと思うの。わかる?」
「わかる」とサナエは答えた。「開けない以上は壊れてないものね」
ヨウタにはしっかりと「FRAGILE(壊れ物注意)」のテープが張ってある。彼は孤独に長く過酷な旅をしてきたのだ。今はそっとしておいてやりたい。
台所の時計が静かに時を刻んでいる。沈黙が重い遮光カーテンのようにしっかりと落ちている。
「だめだ、私眠いや」とサナエは根を上げた。
そりゃそうだ、1時間で缶ビール5本と、焼酎をボトル半分開けてるんだから。
「だめね、年にはかなわないや」
「いやいや、こんだけ飲んどいてそれはないでしょ」
サナエはケタケタ笑いながら「お先失礼します」と寝室に入っていった。マサコは眠くなかった。一応、と思い、開かれたままのインターネットの小説を読んでみた。
それからヤフーに接続してメールを開く。受信箱には3件のメールがあり、そのうち1件はグランドキャニオンの旦那からのものだった。
ヨウタは見つかった。こっちに一泊してから、ロスに戻る。
と手短な用件が記されていた。マサコは安堵とも悲嘆ともつかないため息を一つついてから、パソコンを閉じた。
それから彼女は机に広げられている算数の宿題をぱらぱらとめくる。姪の丸まった字がころころと転がる小石のようにあちこちに散らばっている。
小さい頃、割り算が苦手だったことを思い出した。あまり、という概念が彼女にはいまいち理解できなかった。
それからヨウタのことを考えた。彼も小学校に通ってたのだろうか。ある日突然、彼は、それはたとえば通学路で道を失い、神様に頭をつままれてどこか別の場所にぽんと置かれたのだ。その神様は猿の顔をしている。まるでゲームのようにそういう遊びをしている。神様に悪気はない。それはただの遊戯だ。年間に何人の人間が不可解な失踪をしているかマサコは知っている。それを知ってから、悲しい気持ちはすっかりなくなった。あくまでもこれはひとつの自然な現象なのだと考えるようになった。地震が起きたり、台風が来たり、もしくは死んだ時計が動き出したりするのと同じだと。
だからどうしてヨウタが選ばれたのだろうという疑問は持たないことにした。それはどうして人は死んでしまうのか、と同じような答えのない疑問だからだ。
しかし、それは頭のなかで拵えたルールであることも知っていた。彼女は片一方でどうしても知りたいと思っていた。なぜヨウタが選ばれたのか。ヨウタの本当の両親は胸が裂かれる思いでこの5年間生きてるはずだ。箱を閉じる権利は、私にはないということを知っていた。
そして翌日、彼女は大阪に向かった。

