
ふたりは14番乗り場に向かった。人だかりができていて、大きな銀色のバスが停車している。側面には黒い犬が疾走する姿が描かれていた。その犬がグレイハウンドという世界で最も早いレース犬であることはもちろん少年は知らない。
「バスは、2、3時間にいっぺんしか停留しない。トイレは必ず休憩時にしておくこと。バスの中にもあることはあるが、鼻がひん曲がって、場合によっては一生それが治らない。なるべく前の方に座れ。その方が安全だからな。運転席から遠ざかるほどに、治安が悪くなる。このバスはお前が病院に通ってるときのようなのんびりしたバスじゃない。さっきみたいなやつらが運転手の死角で平気で犯罪をおかす。それと俺はお前の隣に座ることはできない。ひとりで座るんだ。心配しなくていい、一番後ろの席に俺はいる。俺はお前をいつもちゃんと見ている」と言い、サビ男はチケットを渡す。「これも絶対になくすな。たとえ言葉が通じなくても、これさえ見せれば話は伝わる」
少年は、言われた通りにした。一番前の席に座り、チケットを手に握りしめ、首から身分証をぶらさげて、リュックサックは抱きしめた。振り向くと、確かに一番後ろの席にサビ男はいた。少年があまりにもしばしば振り向くから、サビ男はあきれて手を払った。少年は仕方なく前を向くと、そこに赤い顔の男が乗り込んできた。さっきの窃盗犯だ。そして男は大胆にも少年の真後ろの席に座った。これで後ろは振り向けなくなった。
エンジンがかかり、車体がぶるっと震えて、頭上から温風が勢いよく出てきた。それはまるで目覚めた犬の体内のようだ。少年は、真後ろにいる赤い男が気になって仕方なかった。
赤い男は僕のことに気づいてるのだろうか? サビ男は、なぜ助けにきてくれないんだ?
少年は、こんなところに来てしまったことを後悔し始めている。サビ男がいるから安心だったし、それにグランドキャニオンという響きが好きだった。旅行はもっと好きだった。ふたたび記憶ががちゃりと開く。少年は飛行機の中にいる。父親と母親が隣で、ヘッドフォンをかけて眠っている。少年は窓の外を見る。真っ暗な空の中、地平線の先から太陽が昇ってくる気配がする。暗闇はゆっくりとダークブルーに変化し、それから何種類もの青色が層となって現れ、お互いを浸食し溶け出し、ますます複雑な青の世界を作り出す。少年は心臓がドキドキし、この幻想的な風景を父母に見せたいが、ふたりは眠ってしまっている。あれは日本からアメリカに行く機内のことだったのだろう。少年は、それからのことを思い出しつつある。空港に到着し、最初に食べた巨大なハンバーガー。ケチャップが顔中についてふたりは笑った。車中、母親は、通り過ぎる看板の文字をすべて読んでくれた。意味はわからないけれど、子守り歌のようで気持ちよかった。少年がおちんちんを触ると父親は怒った。母親は笑っていた。少年がぼんやりとしていると、ふたりは心配そうだった。少年が「ここはどこ?」と訊ねると、ふたりは「あなたの家よ」と言った。そして何度も何度も繰り返し、ふたりはこう言った。「わたしたちは、あなたのお父さんとお母さんよ」と。
あのふたりは、それでも偽物なのか? この記憶は本物なのか?
