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オブジェ
1−3 その少年は、サビ男と湖の畔に立っていた。

その少年は、サビ男と湖の畔に立っていた。風はなく、湖面は凪いでいて、辺りの森の風景を水面に映し出していた。はぐれた雲がひとつ、じっとしたまま湖の中央にぽかりと浮いている。空を見上げれば、そこにも同じ形の雲があった。太陽は見当たらなかった。
いつからここにいて、いつから途方に暮れているのか。
サビ男の方はというと、少年と湖からだいぶ距離をとって、砂辺で直立していた。水が怖いのだろう。サビ男は、その名の通り、体中が錆びで覆われている。もとの服の色も分からないほどに、全身がくすんだ赤茶色だった。顔からつま先まで全部。目ん玉だけがぎょろりと生きていて、それが鉄のオブジェではなく人であることを証明している。風が吹けばボロボロと崩れてしまいそうだ。身の丈は2メートルはある巨体だが、生気は感じられない。ただそこに少年の従者のように控えている。ドンキホーテとセバスチャン。ロバはいない。もしかしたら2人は旅の途中なのかもしれない。
少年は肩こりをほぐすように、首をぐるりと回し、景色が逆転するのを楽しんだ。視界は湖、森、空、森、湖、と変化していく。頭の中の霧が晴れていくのを感じる。甘い蜜の匂い。おちんちんを触ってる時のような濃密な快感。少年は、首がちぎれてしまうほどに、どんどん速く頭を回す。 やり過ぎて気持ち悪くなり、うえー、と、少年は嘔吐く。息を整え、顔を上げると、湖面に茶色の生き物がいることを発見する。雲が浮かんでる中央のあたりに、そいつはいた。
猿だ。水の上に立っている。
少年は、猿に近づくために、ゆっくりと汀に入っていく。靴が水を触る。猿は身動き一つせずにじっとこちらを伺っている。足首まで水で浸かり、ぬるくて柔らかい液体を肌に感じる。猿はぴくりと顔をあげ、それから背中を向けて、少年に飽きたように立ち去ろうとする。少年は追いかけてはいけないことを知っていながらも、走り出す。膝まで浸かると、身体が一気に重くなり、バランスを崩し、顔面から湖に落ちる。
そこで「ヨウタ!!」と呼ぶ声が聞こえる。
少年は必死で顔を上げ岸辺を振り向く。そこにはサビ男ではなくて、美しい女がいた。もう一度湖面に目を戻しても、そこにはもう猿はいない。

ヨウタ、と呼ばれた少年は、以上のことを白い顔の男に語った。そこで目が覚めました、と。白い顔の男は、回転椅子で足を組み、手元のバインダーに向かって万年筆を走らせている。表情は読み取れない。時たま癖なのか、ペン先を舌で舐める。その舌は異常に赤く、少年は見ちゃいけないものを見た気分になり、目をそらす。白い男の隣には、丸椅子に腰掛けた若い女がいる。その女は自分の尖った靴先をじっと眺めている。その靴も男の舌のように真っ赤だ。
白い男は、解らない言葉で話しかける。赤い靴の女が「今日は以上で終わりです。また来週お待ちしてます」と解る言葉で話しかける。赤い靴の女は立ち上がり、少年のために扉を開ける。廊下に向かって「お母様、終わりましたよ」と声をかけ、それからすぐに夢の中で見た美しい女が部屋に入ってくる。
「ヨウタ、帰ろうか」とお母様と呼ばれた女は言った。少年は手をとられ、廊下へと出る。この女は僕の母親なんだ、と少年は思う。
閉められた扉の奥からは、先ほどの赤い靴の女と白い男の会話が聞こえてくるが、聞いたことのない言語のために心が混濁する。振り払うように少年は首をぐるぐる回しながら廊下を進んだ。
建物の外はスモッグで包まれていた。溶け始めた太陽が頭上に揺らめいている。腐った果実に似た蒸せる匂いで嘔吐きそうになる。振り向くと、4階建てのレンガ造りの建造物がそそり立っている。その天辺にはEdmont Taylor Memorial Hospitalとあるが、少年には難しすぎた。


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