
黒い車は母親の運転で緩やかに動き出した。母親であることは思い出したが、名前までは思い出せなかった。助手席の少年はそのことは黙っていた。母親は終止喋り続けた。先生は優しかったか、通訳の女性はまだ慣れてないからごめんね、ロールシャッハテストはしたのかしら、来週パパが帰ってきたら水族館に行きましょう、パパの仕事場でもいいわよ、あなたあそこ好きだもんね。などを矢継ぎ早に繰り出した。
そして少年は適当に相づちを打って、過ぎ去る風景をぼんやり眺めた。高層ビル群を抜けると、ハイウェイに乗り、単調な郊外の風景に変わった。鮮やかな看板が乱立していた。しかしどれも解読は不可能だ。道路の標識も読めなかった。
なんて書いてあるの?と少年は訊ねた。
母親が丁寧な発話で「カルバーシティまで35マイル」と答えた。
「サンタモニカまでは72マイル」とサビ男が付け足した。振り向くと後部座席にはサビ男がいつの間にか座っていた。「今度一緒に行かないか。サンタモニカ。海がある。きれいなビキニの女たちもいる。しかし魚は死ぬほどまずい。まあ俺は海には入れんがな。しかし眺めるのは嫌いじゃない。地獄の風景ほど美しいものはないと言うじゃないか」
運転席の母親は、いまだ看板をひとつひとつ丁寧に読み上げていた。マクドナルド、ダンキンドーナッツ、ウォルマート、ラウンド・テーブル・ピザ、ベビーザラス、ターゲット、ユートピア・ホテル。後部座席のサビ男の姿は母親には見えていないのかもしれない。10号線は西へと伸びている。遠く、右手の丘には「HOLLYWOOD」の看板が見えたが、それもまた少年には難しかった。
サビ男は少年に、ここがアメリカの西海岸という地域にあることを説明した。「お前が育った日本とは太平洋を挟んだ反対側。地図があるだろ、日付変更線で2つに折ると、日本とカルフォルニアはぴったり重なりあう」。サビ男の声は、風のようだ。ひゅーひゅー、と耳を優しく触ってどこかへ消えた。
一行は、道路沿いにある駐車場付きのコーヒーショップに立ち寄った。
「まだ夕食までは時間があるし、少し休憩しましょう」と母親は嬉しそうに言った。
少年はバニラアイスを、母親はカプチーノにビスコッティを浸しながら食べた。広々としたテラス席には、自分と背丈の変わらぬ白い顔の男の子や女の子が解らない言葉で何事か喚いていた。駐車場の「PARK」と書かれた看板の下にサビ男はひとり佇んでいる。こっちには来たくないらしい。母親はあたりを見回し、それから手を振った。その方向からキャップを被った若い男が現れて、少年の隣に座った。
2人はとても親しく話している。少年に解らない言葉で。この人が父親なのだろうか。キャップの男の顔は、少年と同じ肌色だった。2人がコーヒーをカウンターに取りにいった隙に、少年は立ちあがり、サビ男に近づいて余ったバニラアイスを差し出した。
「減量してんだ」とサビ男は断った。
「僕はどうしてここにいるの? 僕は誰なの?」と、ずっと聞いてみたかったことを率直に尋ねた。少年は少し緊張していた。
「時たまお前はそうやっておかしくなるんだ。うまくいってたと思ったら、突然元の馬鹿なお坊ちゃんに戻っちまう。でもな気にすることはない。もともと何も覚えてなかったんだ。正確に言えば、お前の記憶はちゃんと頭のタンスの中に入ってる。しかし鍵がしっかり掛かってて、今のところは鍵が見つからない。その在処はだれにも解らない。ろくでもないカウンセラーにだって見つけることはできないだろう」
少年は次の質問をした。「あの帽子の人は、僕のお父さんなの?」
「いや、違う。お前の父さんは、本当の父さんということだが、どこにいるかわからない。はっきり言おう。あの母さんだって、お前の本当の母さんではない。あの美しい母さんは、お前を引き取って育ててはいるが、それと実際の母さんとはやはり違う」
「本当の母さんはどこにいるの?」
「おそらく死んでる」
少年は、サビ男の「死んでる」という言葉に、どう反応していいのか解らなかった。「死んでるんだ」と小声で一人ごちた。
「俺は、あんたが、このアメリカにいるってことに何か深い意味があると思って、ずっと考えてる」
「よくわからない」と少年は言った。
「気にすることはない。わかりたければ、いずれ全部わかるさ。」
