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オブジェ
6−2 少年はグランドキャニオンを目の前に、立ち尽くしていた。

少年はグランドキャニオンを目の前に、立ち尽くしていた。サビ男は少し後に控えている。風がびゅんびゅん唸っている。吹き飛ばされてしまいそうなくらい強い風だ。少年は足を踏ん張って、視界に入る光景を全部見ようとする。しかしその峡谷は巨大すぎてあまりにも巨大すぎて、少年はただ圧倒されるだけだった。放心というのとは違う。もっと心地よいものだ。でも、おちんちんを触って得られる快感とも違う。頭の中がぐるんぐるんする。いつもみたいに頭をぐるんぐるん回さなくても、勝手に頭の中が回ってる。少年は「誰かに何かを伝えたい」という欲求がわき上がっていた。誰か、というのは、世界中の人間に、だ。世界中の人間に何かを伝えたい。何を? 何を伝えたいんだ? 
日本人の長髪の青年が近づいてくる。
「すごいね」と彼は少年に声をかけた。少年は「うん」とだけ答えた。
「すごいね」この言葉を世界中の人間に伝えたいのだろうか?
少年は、もっといい言葉がないだろうかと探した。この心から沸き上がってくる感情を適切に伝える言葉を探した。
そこで初めて、少年は言葉というものをほとんど持っていないことに気づいた。

ここまでの道程を少し説明しよう。
バスはラスベガスを出発し、翌日の早朝にフラッグスタッフ(Flagstaff)という町に着いた。町と言っても、グランドキャニオンに行く人が降りて通過するだけの小さな町だ。バス停の前には数台のミニバスやバンが泊まっていて、それぞれ観光客を乗せてグランドキャニオンまで運ぶ。
長髪が少年に近づいてきて「グランドキャニオンまで僕も行くことにした。折角だし。どうだい、一緒に行くかい」と尋ねてきた。少年はようやくこの青年の寂しさのようなものに気づいた。その寂しさの源はわからなかったが、浮かべる表情の端々に弱さのようなものを感じた。
それから数人のガイドと交渉し、一番安くしてくれたテンガロンハットの陽気な白人について行くことにした。案内された場所には、砂埃にまみれたバンがあった。何世紀も前の地層から発見された遺物のような車だった。元々の色が何色だったかわからないほどに汚れていた。本当に動くのだろうか。
ガイドのテンガロンハットは、グランドキャニオンのことなら俺に任せろ、地元の人間しか知らない絶景ポイントを俺はたくさん知っている、だからお前はこのバンに乗れてラッキーだ、と終始笑顔で語った。もちろん日本人の長髪が通訳してくれたからわかったのだけど。
6人乗りのバンには、すでに5人の乗客が乗り込んでいた。3人組の金髪の女の子たちと、2人組の日焼けしたカップル。どう見ても満席だ。
「俺は屋根に乗って行くから構わんよ」とサビ男は答えた。
長髪の青年は一番後に、少年は助手席に座らされた。貨物船に放り込まれる小荷物のような扱いだったが、そんなことを気にするものは誰もいなかった。そもそも取り扱い注意の札を貼るほどの人間がどこにいるというのか。


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